このページでは、私の生い立ちについて書いていきたいと思います。
借金1億3,000万円からのスタート⁉
私は、家具メーカーで勤務する父ちゃんと小さな家具屋の娘であった母ちゃんの間に生まれました。
両親ともに福岡県の出身で、私も福岡県(粕屋郡志免町)で生まれました。
4,200gもある大きな赤ちゃんだったそうです。
少しだけ私が生まれる前の話をします。
母ちゃんの父ちゃん、つまり私にとってのじいちゃんは家具屋を営んでいたのですが、母ちゃんはそこで中学生の頃から会計係りをしていたそうです。
当時は、資金繰りがとても厳しく借金が1億3,000万円もあったそうです。
じいちゃんは、昔のTHE職人みたいな人で経営がうまくいっていなかったこともあり、お酒を飲んでは家具を壊して大声で怒鳴り、毎日母ちゃんはおびえながら日々を過ごしていたそうです。
支払手形が不渡りとなると、店も家もなくなり住むところがなくなる。そんな不安ばかりの毎日だったようです。
昔のドラマでしか聞いたことがないような話ですが、そんな苦労をしてきた母ちゃんから私は三人兄弟の長男として誕生します。
母ちゃんは自分がたくさん苦労をしてきたから、同じように苦労させたくないと私を本当に大切に育ててくれました。
じいちゃんは、木工職人時代のケガが原因で左目が義眼でした。不安をいつも数倍にして、とても心配症な人でした。
弟の病気とチック症
私が3歳のときに父ちゃんの仕事の転勤で香川県に引っ越してきました。
それからさらに2年が過ぎた頃、二人目の弟が誕生します。
ただ、生まれた直後のこの小さな弟の脳に病気があることが発覚します。
全身麻酔を行う脳外科の手術を、身長が止まるまで数回行う必要がある病気でした。
ただでさえ心配症だった母ちゃん。
笑うことが少なくなり、不安とずっと戦っているうちに心のバランスを崩していったと言います。
そして、私は陰部を触り続けるなどチック症を発症し始めます。
幼かった私の心にもストレスがかかっていたようです。
私が5歳の頃の話です。安部家にとって厳しい冬の時期でした。
ガリガリな「ゴリ」
月日は流れ、私は小学4年生になったときに友達に誘われてミニバスケットボールを始めます。
当時は、「スラムダンク」が流行っていた真っ最中とあって空前のバスケブーム。
私は名前が「たけのり」なので、スラムダンクの中で出てくる湘北バスケ部キャプテンの赤木たけのり、通称「ゴリ」と同じ名前だっただけで「ゴリ」と呼ばれていました。笑
でも、漫画のゴリとは違い、食が細く食べ物は匂いを嗅ぐだけで吐き気を催すような状態でした。
「ゴリ」と一緒にもう一つ呼ばれたあだ名は「もやし」。
本当にガリガリでした。
でも、不思議なものでいくら運動してもお腹がすくという感覚はなかったことを覚えています。
みんなが試合の時にとり弁当を食べ終わる横で、まだ半分のバナナを食べきれず格闘しているような状態です。
食べることが本当に苦痛でした。
ある日、給食のときに私の食が進んでいない姿を見て「がんばれ!」と友人が応援を始めました。
それを聞いたクラスのみんなも同じように「がんばれ、あべちゃん」とコールを繰り返し始めました。
そして無理をして少し多めに食べ物を口に含んだ瞬間、その日食べた物すべてをリバースしてしまいます。(当時、あべちゃん給食事件と命名されていました)
それからは給食を無理に食べなくてもいいと先生が言ってくれるようになりました。笑
家庭も明るくなってきた
根はおとなしい性格なので感情を表に出すことはできませんでしたが、小学生低学年の頃に比べると気持ちが前向きになっていました。
バスケットボールを続けていたおかげか性格が暗かった私にも友達がたくさんできました。
相変わらず食は細かったですが…。
その頃には小学校の陸上クラブにも入り、毎日運動するようになっていました。
私の様子を見て、弟二人もミニバスに入りました。
父ちゃんも母ちゃんも私達兄弟のバスケや陸上の練習や試合を見て、熱が入るようになり家庭がとても明るくなりました。
変わりたい!
私はバスケ自体はそんなに好きではありませんでしたが、毎日体を動かしていたおかげで足が速くなり両親や先生、友達に「すごい」と褒められることがとにかく嬉しくて、1.2キロの学校と家の往復も毎日走って帰っていました。
それと同時に、冗談を言ってみんなを笑わせたりするクラスの人気者をいつも羨ましいなと思って見るようになっていました。
「自分も堂々と話して人気者になりたい!暗い性格を変えたい!変わりたい!」
そんな思いを強く抱くようになります。
事故にあう
同じとき(私が小6の時)に両親は頑張って一戸建ての家を建てました。
仲のいい友達と離れないよう同じ校区内に家を建ててくれました。
引っ越して一ヶ月くらい経ったときに安部家を大きな事故が襲います。
一番下の脳に生まれつき病気のあった弟が新しく建てた家の目の前で道に飛び出し、車にひかれました。
弟は車にぶつかった衝撃で10m近く飛ばされて意識不明の重体で救急車で病院に搬送されました。
私はその時、小学校で陸上クラブの練習中だったのですが、先生からとにかくすぐ帰るよう言われ友達のお母さんがわざわざ迎えにきてくれました。ただ事ではないと思いながら新築の家に帰りました。
家の前にはパトカーが赤灯を回しながら止まっており、人だかりができていました。
そこで初めて父親から弟が車ではねられたということを聞かされます。
弟は、事故の衝撃でくも膜下出血を起こしており一週間経っても意識が戻らず、このまま意識が戻らないかもしれないとお医者さんから言われます。
母ちゃんは病院につきっきりで、父ちゃんと兄弟2人での弁当生活に。
新築のお家なのに、暗く重たい空気が漂っていました。
でも、そんなときにミニバスの友達と保護者のみなさんが助けてくれます。
練習の送り迎えをしてくれたり、弁当を作ってくれたり。
私も運動のおかげで精神力がついていたこともあってなんとか乗り切ることができました。
ミニバスをしていなかったら乗り越えていけなかったと思います。
事故のあった当日夜11時ごろ、息子が「今日はこの騒ぎで宿題ができんかったんやけどどうしたらいい?」と言ってきたのです。本当に衝撃でした。
子供たちを守ることに必死になってきたけど、そうじゃなくて自分で考えて行動できるような大人にせないかんと強く思った瞬間でした。
バスケ三昧の日々
何をやりたいか分からない
スイッチが入った瞬間
運動指導と猛勉強に明け暮れる日々
それからというもの、運動指導の勉強と現場での指導に明け暮れました。
3年間は大型スポーツ施設でスポーツトレーナーとして働きながら、会社に無理を言って毎月名古屋まで通って著名なスポーツ選手や芸能人も指導しているトレーナーさんの元で指導スキルの向上に取り組みました。
自分が受けたいという内容の運動指導者向けセミナーや講習会があれば東京や熊本など遠方であっても惜しみなく参加しました。
働いていた給料の半分以上を交通費や受講料に使っていましたが、幸いその時は実家暮らしだったのでなんとかなっていたことを覚えています。笑
独立
2013年4月には、「特定非営利活動法人香川県運動推進協会」という組織を設立。
自治体や企業から健康運動教室や介護予防運動教室を受託実施する組織の経営者となりました。
また、運動が得意でない子でも通える体育教室「たけのこ体育教室」を同時に立ち上げ、県下の主要なスポーツ施設で夕方から毎日、子どもたちに運動指導を行うようになりました。
どちらの組織ともに現在も継続して運営しています。(運動推進協会は2020年度より一般社団法人へと法人格を変更)
2016年5月には、県紙「四国新聞」様より子どもの運動に関する記事の執筆依頼をいただき、それから毎週連載がスタートしました。(こちらも現在継続中で、2020年11月11日分で第218号)
2017年4月には、国立大学法人香川大学大学院へ進学。
子どもが夢中になる運動プログラムの開発に取り組むようになります。
社会人として長期履修制度を活用したため通常2年のところを4年間研究させていただくことができるようにしていただきました。(来年2011年3月に教育学修士号を取得し卒業予定)
この頃から数百名規模の参加者がいる中での大型イベントや講演会で講師としてお呼びいただくことも増えてきました。
保育士を養成する大学での非常勤講師の依頼もいただけるようになりました。
運動を通じて、体と心を笑顔にする
私は、子どもの頃虚弱体質(食事が摂れない、貧血がひどい等)で内向的な性格であったため、子どもながらに苦労した過去を持っています。
しかし、スポーツするようになってからいろんな成功体験をすることができ体質も改善し何事にも自信を持って取り組むことが出来るようになりました。
運動がきっかけで体が変わり、心が変わったと痛感しています。
- 私のように、おとなしかったり自分を表現することが苦手な子でも変われることを知ってほしい。
- 運動が苦手な子でも、運動が得意になり自信を育んでほしい。
- そんな子供たちを持つ保護者のみなさんに知っておいてほしい子供の運動や発育発達について情報をお伝えすることでお役に立ちたい。
「運動を通じて、体と心を笑顔にする」
これが私の使命であり、日々活動している目的です。
この使命を胸に今日も精一杯がんばります!
どうも、たけのこ先生です。
今だからこそ、自分で会社を設立して経営者となり、本を出版し、大学で非常勤講師を務め、数百人の前で講演をさせていただくようになった私ですが、子どもの頃の私は人前に立って話をするなんてとてもできるような感じではありませんでした。